珍しく、電話1本かかってこない。
皆お休みかな。
で、私は、今日は、「頑張った!」
大掃除、それも、「徹底的」に。
明日も、「目の色変えて、大掃除」の予定!
早朝6時半からスタートですが、
途中、やっぱ、ちょっと、休憩。
そして、読書。
やっぱ、「尾崎行雄」の「民主政治読本」(世論時報社)
今、やっぱ、「憲法」でしょう。
尾崎行雄紹介から。
1858年(安政5年) 相模国(神奈川県)津久井郡又野村に生まれる
1879年(明治12年) 20歳~21歳
新潟新聞の主筆となる。
1885年(明治18年)26歳~ら27歳
東京府会議員となる
1890年(明治25年)33歳~34歳
第1回総選挙当選 (以後25回連続当選)
1903年(明治36年)44歳~45歳
第2代目東京市長就任
1919年(大正8年)第1次世界大戦後の欧米視察へ
1941年(昭和16年)対米英宣戦布告 日独伊三国同盟に反対する
1945年(昭和20年)終戦 86~87歳
12月 「世界連邦建設に関する決議案)を議会に 提出
1946年(昭和21年) 87歳~88歳
立候補を辞退していたが、推薦で立候補、 最高点 で当選。
1948年(昭和23年)89歳~90歳
世界連邦建設同盟が結成され、初代会長に就任
1952年(昭和27年)衆議院より憲政功労者として表彰される。
病床より立候補し当選(連続25回当選)
1954年(昭和29年) 95歳
永眠
敗戦後、「立憲主義と民主主義に対する国民の理解と自覚を促すために
書かれた」のが、「民主政治読本」。
ということで、印象深い部分抽出紹介します。
p53 「敗戦の最大収穫」
「もし戦争に敗れなかったら、人民の基本的人権をここまで徹底的に保障した、こんな立派な大法典はとても勝ち取れなかったどうろう。・・・・・
・・・ただ、心配なのは、明治憲法さえ使いこなせなかった国民に、果たして、それよりも立派な新憲法が使いこなせるだろうかということである。」
p54 「高価な新憲法」
「・・・・・・しかし、今度の新憲法をただと思うほど、敗戦に対する認識不足の国民なら、もはや到底 独立国家を営む資格はない。
ただどころか、この憲法は数百万の人の命と数千億の戦費と、台湾、朝鮮、樺太、千島等領土と、無条件降伏という最大の不名誉を代償にしてやっと手に入れた宝である。
おそらく世界中にこんな高い代償を払った憲法はないだろう。
・・・・・その代償はいかに高かろうととも、幸いにこの憲法を活用して、日本を立派な平和国家として建てなおすことができさえすれば、我々の子孫は決して高すぎたとは言わないだろう。新憲法こそは日本の前途を照らす光明である。」
p58 ポツダム宣言の履行
「・・・・・・・(中略)・・・・・・
では、その民主主義とは一体何か。
・・・その根本思想が、自由と平等と生存権の要求にあることは確かだ。
・・・新憲法を生かすか、殺すかは、まったくこの問いに対する国民一人ひとりの回答によって決まるといっても過言ではないどろう。
・・・少数の支配者によって行われる政治は、民主政治ではない。
民主政治は必ず、人民自身によって行われる政治でなければならない。」
是非、直接お読みください。
含蓄のある言葉がちりばめられています。
まさに、今歴史的岐路に立たされている日本国民
一人ひとりに突き刺さる言葉です。
「守り抜きます。憲法の示す国造りに、立憲主義の日本にしてみせます」と、答えられるよう、力を合わせます。」と、一人ひとりが思えるかが勝負。
尾崎咢堂の新憲法への期待、民主主義の浸透への期待を感じます。
本市、津久井又野の出身です!
尾崎咢堂記念館で記念写真
津久井の又野
きりりと |